放っとけない.. [Message]

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「放っとけない」マルコ5:18-20

櫛田 猛 担任牧師

 前回はエス様が湖を渡った話でした。途中で嵐になって大変な目に遭ったのです。今日はその続きの話。ゲラサという所は異教徒の土地です。だからユダヤ人は絶対に行かない。イエス様は嵐を超えてわざわざ異教徒の土地まで行ったのです。それは一人の人と会うためでした。

 最近気付いたのですが、イエス様がわざわざ会いに行った人というのは、皆に嫌われていた人たちばかりです。何人もの男と同棲していたサマリアの女性。みんなから税金をだましとって懐を肥やしていた徴税人ザアカイ。そして今日の悪霊に取りつかれていた人。わざわざ回り道をしてまで、みんなから嫌われて憎まれていた人に会いに行った。それがイエス様なのです。

 今回、イエス様が会いに行ったのは汚れた霊に取りつかれた男です。どんな人なのか紹介します。聖書のある方はマルコ5:1-5を見て下さい。

   1. 墓場に住んでいた。
 2. 何度も鎖で縛られていた。
 3. 素っ裸で昼も夜も叫んでいた人。
 4. 石で自分を打ち叩いていた人です。

 厳しいですね。もう家族もどうすることも出来ない。地獄です。もうほっておくしかない、そんな人にイエス様はわざわざ会いに行ったのです。

 この人は家族から切り離されて墓場に住んでいた。生きているけど死んでいたということを表しているのです。聖書ではこういう人を生きているけれど、実は死んでいると表現します。神様と切り離されているという意味です。切り花をイメージしてください。切り花はきれいな花が咲いています。でも命からは切り離されています。聖書は神様から切り離されている事を死と言うのです。

ではここでⅠヨハネ3:14を読みましょう。

Ⅰヨハネ3:14
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。

 愛する事のない人は死にとどまったまま。生きているけれど死んでいる。それが聖書の捉え方です。このレギオンは自分を石で打ち叩いていました。自分を愛する事が出来なかったのです。

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神様は「自分を愛するように隣人を愛する」ように人間をデザインされています。

 だから自分を正しく愛せないなら、隣人を愛する事が出来ないのだと思います。私たちは自分を正しく愛する事が出来ているでしょうか。

 病気、性格、家庭環境、年を取った、いろんな理由で「自分なんて」という投げやりな思いが頭のどこかにちょっとでもあるなら、他の事を後回しにしても、自分を正しく愛することを学ばなくちゃいけない。自分を否定してしまう人は、他人も否定してしまいます。他人を否定する人は、実は自分を否定している人です。自分を傷つける事も他人を傷つける事も根っこは同じです。イエス様が必要です。今日、最初の分かち合いです。

 イエス様は私たちを神様のデザインに戻してくれる。戻るのに悪霊が邪魔なら追い出す。病気が邪魔なら癒す。そして聖書が教える罪。人じゃなく神様に対する罪がある。これがあると神様のデザインには戻れない。だからイエス様はすべての人の罪を背負って十字架で裁きを受けて下さった。イエス様の死で、私たちの罪は贖われたのです。

 放蕩息子のたとえ話で、息子がどん底の生活の中で「自分は父の息子だった」とふと気付く。そして正気に返って家に帰る。イエス様はレギオンの男の悪霊を追い出して解放しました。彼も正気に返った。そして神様のところで帰った。

 普通苦しみは計れません。でもイエス様はその苦しみをはっきりと見せました。悪霊が豚に乗り移ったら2000頭の豚が苦しみのあまり湖になだれ込んで死んでしまった。それほどの苦しみだった。

 私たちもそれなりの苦しみを抱えています。その苦しみに囚われて、自分を愛せないでいるなら、誰かを憎んでいるなら、イエス様は放っておかない。わざわざ私たちに会いに来て下さる。私たちの人間性が壊れ、家庭が壊れ、人生を壊すものをイエス様は放っておかない。

 放っておいてくれと頼んでもダメ。頼んでもいないのに散々苦しんで十字架で死なれた方です。イエス様は絶対私たちを放っておいてくれないのです。それは何故か?それは私たちが神様の子だからです。

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 一人の人が洗礼を受けてクリスチャンになるという事は神の子に戻る事です。それまでに、苦しい事や悲しい事や、いろいろなドラマがある。素直に信仰を持てる人もいるし、ものすごい葛藤の果てに信仰を持つ人もいる。どんなタイプの人でも、洗礼を受けた時に必ず神様から届く言葉がある。それを読みましょう。

マルコ1:10-11(新改訳聖書)
あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。

イエス様は私たちを放っておきません。

私たちは神様の子ですから。私たちが一人も滅びないで、永遠の命を持つ事。それがイエス様の絶対あきらめない願いです。

 解放されたレギオンの男はイエス様のお供をしたいと願いました。でもイエス様は断った。冷たいようですがそうじゃない。家に帰って、自分の身に起こった事を家族に話すように求めました。イエス様はこの町の伝道をこの人に任せたのです。この人はデカポリス地方に言い広めました。デカポリスとは「10の町」という意味です。家族どころか、10の町で「イエス様が自分にして下さったこと」を話したのです。

 伝道とは、偉い学者や専門家がすることではないのです。何の資格もない、欠けだらけの人の体験を通して伝えられていくのだと思います。「主が自分にしてくださったこと」だけを伝えればいいのです。今日二つ目の分かち合いです。イエス様が私たちにしてくださったことは何でしょう。それが私たちの証であり、伝道です。

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日立キリストの教会 2018年7月28日 礼拝メッセージ

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